中国近現代史ノート2
【1】毛沢東時代
(1)国共内戦
○45.10に双十協定調印。蒋介石と毛沢東が戦後構想を協議。
一方以降各地で国共両党は衝突。国民党が圧倒的優勢.
○45.08~10、上党・甘戦役ー山西省の主導権を確保
45.10~46.01、遠戦役ー内蒙古の主導権を確保
45.10~46.01除州・済南戦役ー山東省の主導権を確保。
46.01に双十協定に基づき重慶にて政治協商会議を開催。
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三月に国民党が6期2中全会で政治協商会議の協議決定を変更し、
国共関係がさらに悪化。
○六月に国共内戦が勃発。
11月、国民党が国民大会を開催、中華民国憲法を制定。
47.02、日本から返還された台湾で二・二八事件が発生。
47.03に延安陥落
○47.06までに山東・峡北を国民党が掌握。
旧満洲を除きほぼ国民党優勢。旧満洲では共産党優勢。
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北朝鮮及び旧満洲領における旧日本軍兵器がソ連経由で
共産党側に流入。
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47.08に国民革命軍が東北作戦開始(内戦終結を意図)
↓
国民党主力が壊滅的打撃を被る。以後、主力を失った
国民革命軍は撤退を続ける
47.10共産党は土地法大綱を公布。地主の土地を没収する
方針を打ち出す。
○48.03に第一次国民大会。初代総統に蒋介石が就任。
三大戦役
遼瀋戦役…48.09~48.11。瀋陽陥落
淮海戦役…48.11~49.01 徐州陥落
平津戦役…48.11~49.01 北京・天津陥落。
49.01に蒋介石が総統を辞任。李宗仁が総統代理に就任。
49.04に人民解放軍が南京占領
49.11に中華民国総統代理李宗仁が香港に亡命。
○49.10に中華人民共和国成立
49.12に国民政府が台北に遷都。
(2)第一次集団化
○53.06の政治局会議で毛沢東は総路線を提起。
新民主主義の過渡期段階を否定して一気に社会主義段階に
移行することを強調。
○53.12に高崗・饒漱石事件。 東北局政府主席の高崗が
組織部長の饒漱石と謀って劉少奇失脚を画策。
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毛沢東が関知、高崗自殺。
○54.09に第一期第一回全人代開催。憲法制定。
毛沢東国家主席、朱徳副主席、劉少奇全人代常務委員長を選出、
周恩来国務院総理を任命。
○54.04にカシミール・プリンセス号爆破事件。
アジアアフリカ会議の代表団を乗せた航空機
「カシミール・プリンセス号」 がブルネイ上空で爆破。
周恩来は搭乗せず。国府情報機関による犯行と言われている。
○55.01には国府側、浙江省の江山島を奇襲し占領。
○56.02より簡体字を導入。
○56.04に毛沢東が政治局拡大会議で「十大関係について」の
講話。「一窮二白(貧しければ革命をやろうとする)」を提唱。
続けて「百花斉放・百家争鳴」を提唱。
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翌57.06に人民日報社説「これはどうしたことか?」発表。
7月の省級書記会議(青島会議)より反右派闘争が始める。
約55万人が右派分子とされ迫害。
○56.09に党第八期全国代表大会(八全大会)。劉少奇が政治報告、
鄧小平が党規約改正報告。所謂八大路線を打ち出す。
○57.07に北京大学長の馬寅初が新人口論を提唱。
○58.01に国務院は戸口登記条例を公布。農民の都市流入を制限。
(2)第二次集団化(大躍進)~調整政策
○58.03に成都で政治局拡大会議(成都会議)。毛沢東が総路線を
提起(53年の総路線と区別)。八大路線を否定。
○58.05に八全大会の第二回会議を開催。第二次五か年計画策定、
大躍進開始。
58.08に北載河で政治局拡大会議。人民公社設立。
総路線・大躍進・人民公社の三つをもって三面紅旗とされる。
収穫量報告の水増しが全国に拡大、食糧が倉庫にあるにも
かかわらず大飢饉が発生、3000万人が餓死。
↓
59.07の政治局拡大会議(盧山会議)で彭徳懐国防部長が
毛沢東に私信、毛沢東はこれを公表し彭徳懐は失脚。
後任の国防部長に林彪が就任。
○59.03にチベットで暴動。約10万人が死亡。
自治区準備委員会主任のダライラマ14世がインドに亡命。
○60.04に雑誌「紅旗」が「レーニン主義万歳」を掲載。
ソ連を修正主義として批判し中ソ対立が始める。
○61.01に八期九中全会。劉少奇国家主席・
鄧小平党総書記らによる調整政策開始。
北京市副市長の呉晗が「北京文芸」に「海瑞罷官」を発表。
○62.10に中国はインドに侵攻。ダライラマ亡命の報復といわれる。
○63.02の中央工作会議にて毛沢東が前十条を発表、
調整政策への反撃を開始。一方九月の中央工作会議で
劉少奇・鄧小平らがこれを補充する形で「後十条」を発表。
両者の対立が進行。
○64.10に初の原爆実験。
○64.12の全国工作会議で毛沢東が
鄧小平・李富春国家計画委主任らを名指しで批判し対立が表面化。
さらに65.01の政治局全国工作会議で二十三条を発表。
(3)文化大革命
○65.11上海の「文匯報」が姚文元の海瑞罷官批判を発表。
文革の端緒となる。
66.05に政治局拡大会議。「五・一六通知」を採択し
中央文革小組の設立を決定。林彪が「天才論」を唱え、
毛沢東の神格化を開始。
○8月の八期十一中全会でプロレタリア文化大革命についての
決定を採択、文革開始。2000万人が死亡したとされている。
林彪が序列二位に躍進、劉少奇が八位に転落。
毛沢東は紅衛兵への接見を開始。
大字報(壁新聞)が大量に貼り出される。
翌67.01に黒竜江省で初の革命委員会が成立。
2月には上海コミューン成立。
○67.06にウイグル・ロプノールで水爆実験。被爆者が発生?
○67.08に武漢事件。実権派の陳再道武漢軍区司令員を支持する
「百万雄師」が造反派と対立。林彪が指揮する東海艦隊が
武漢を包囲。周恩来が調停。
○68.05に毛沢東が林彪に五七幹校設立を指示。下放が本格化。
○69.04九期一全大会、林彪を党副主席(1ポストのみ)に選出。
○70.03にの中央工作会議で国家主席職の凍結が決定。
林彪はこれに不満を抱く。
70.08の九期二中全会で林彪派が
「会議は林彪の演説に学ぶべき」と提起。
毛沢東の林彪に対する攻撃が始まる。
71.09に五七一クーデター。林彪が毛沢東を暗殺しようとして失敗、
亡命に使用した航空機が燃料不足で墜落し林彪は 死亡。
○71.10に国連加盟。
72.02にニクソン米大統領が訪中。また72.09に日中国交正常化。
○73.08に十全大会。周恩来の意向で鄧小平が中央委員に復活。
一方政治局に党副主席の王洪文、毛沢東夫人の江青ら四人組が出現。
75.01に鄧小平が党副主席に選出。
○76.01に周恩来が死去。天安門広場で民衆が
周恩来追悼を始める。華国鋒らがこれを批判、花輪を撤去。
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暴動が発生。鄧小平は責任を問われ再度失脚。
華国鋒が党第一副主席・首相に就任。
【2】経済体制改革・対外開放
(1)経済体制改革・対外開放
○7月に朱徳、9月に毛沢東が死去。
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華国鋒が党主席に就任。四人組が失脚、逮捕。
○77.08に十一期一中全会。鄧小平が再度党副主席に復活。
78.06全軍工作会議で鄧小平が「実事求是」を提唱。
文化大革命、反右派闘争、土地改革などの名誉回復・復活開始、
該当者は290万に上る。
○79.01に国務院の全国出産弁公室主任会議が一人っ子政策を決定。
○79.02にベトナム侵攻。一か月後に撤退。
○79.06に地方革命委廃止、人民政府が復活。
○80.02に胡耀邦が党総書記に就任。
○80.08第五期全人代十五回会議。広東省深圳、
福建省廈門などに経済特区設置。
また、趙紫陽が首相に就任。
○9月に政治局が「農業生産責任制の改善強化に関する通知」を
発表、生産責任制へ移行。万元戸が出現。
○11月に華国鋒は党主席を辞任。
○81.06十一期六中全会に於いて歴史決議
(建国以来の党の若干の歴史的問題についての決議)を採択、
文革を否定。
○82.09十二全大会。「中国の特色をもつ社会主義」を提唱。
「小康水平」(一人あたりGDPを20世紀末までに
800ドルから1000ドルに)を目標とする。また党主席を廃止。
○82.11に第五全人代第五回会議。
国家主席復活、郷鎮政府設置、人民公社を廃止。
○83.01に鄧小平が先富論を提唱。
○84.10十二期三中全会。「経済体制改革についての決定」採択。
「改革・開放(対外開放と経済体制改革)」路線が確定。
○85.05に中央軍事委拡大会議、解放軍兵員100万人の削減を決定。
○87.01に、民主化に寛容だった胡耀邦総書記が辞任、
趙紫陽が後を継ぐ。
○88.03に第七期全人代第一回会議。楊尚昆が国家主席、
鄧小平が国家中央軍事委主席、李鵬が首相に就任。
○89.04に胡耀邦総書記が死去。
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天安門事件。
5月に戒厳令布告、6月に解放軍出動。
【3】江沢民政権
(1)江沢民政権
○6月の十三期四中全会で趙紫陽総書記が辞任。江沢民が就任。
○90.02に鄧小平が上海浦東を視察、浦東開発が本格化。
○90.03第七期全人代第三回会議。
鄧小平が国家中央軍事委主席を辞任、江沢民が就任。
92年1~2月に鄧小平が南方を視察、南巡講話を発表。
94年に鄧小平は完全引退。
○95年6月に台湾の李登輝総統が訪米。
翌月から中国側が台湾北方の海上でミサイル演習を開始。
96年の台湾総統選時期まで 継続。
○97.02に鄧小平死去。
○97.06に香港返還。一国二制度を導入。
○98.03に第九期全人代第一回会議、朱鎔基が首相に就任。
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